作品アーカイブ (目次)

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孤狼の傷跡 連載


*中編になります。少しずつ書き足していきます。

序章『修練の跡に』


 風踊り、木の葉が舞う。冷たい空気が肌を刺す。ゆったりとした着流し。紺色の端が滑らかに流れる。右掌を眼前に置き、左拳を腰に添える。岩を、見据えた。


 前方に踏み出す。震脚が石床を砕く。破片が舞い上がり、左腕が伸びる──拳を、開けて。中心に触れる。岩に掌型が刻まれた。拳と掌を合わせ、頭を下げる。総髪が僅かに揺れて。岩を背にし、ゆっくりと前に踏みだした。亀裂が拡がり、崩れ去る。残された、砂。


「成ったか」

 正面に立つ白装束の男──宗泰真。顎髭を蓄え、伸ばした背筋に這う、長い白髪。

「10年か。白蓮、お前は絶招を得て何処へ向かう?」


 白蓮と呼ばれた男。歳は25になる。細く引き締まった身体をしなやかに伸ばす。泰真に問われ、頭を下げた。

「師父。私はあなたに拾われ、目的の為に弟子入りした。功が成った今、行かねばなりません」


 泰真は頷き、革袋を差し出す。澄んだ音が僅かに鳴った。受け取ると、すぐに背を見せ静かに歩き出す。その重みを感じながら、懐に仕舞う。


 今まで見続けた背中。視線を外し、踏み出した。目的のために。着流しの奥で、左肩から右腰にかけての傷が疼く。風が砂を攫う。群れとなり、宙を舞って。



一章『目的』 


第一話「絶招」


 中国河北省。燕山から降り、旧市街地に向かう。下山することは無く、修練に費やした10年を山で過ごした。食糧は苦菜などの野草、猪などの獣を狩って食らった。全ては、牙を研ぐ為に。


 古城の入り口を見上げる、白蓮。黒い総髪が風に靡く。頬に張り付く砂を払い、門に近付いた。煉瓦造りの壁面に赤い文字が書き殴られた貼り紙があり、その側に古紙の切れ端が残っている。


 門に触れると、肩を掴まれた。振り返ると、男がニヤついていた。継ぎ接ぎの服を着た、古い歩兵銃を担いだ男。顔は黒く薄汚れている。

「見ない顔だな。対価は持ってんのか?」


「......街に入りたいだけだ」

 掴んだ手に力を込め、男が白蓮を突き飛ばした。騒ぎを聞きつけて二人の男が近づいて来る。継ぎ接ぎの服を着た太った男と、痩せた男。


 白蓮が動く。薄汚れた男の眼前にいた。畳んだ肘を脇から開き、体ごと突き刺す──裡門頂肘。胸を抉られ、男が崩れ落ちる。担いでいた銃が砂埃を巻き上げた。視線を外し、二人の男に向き直る。

 

 感嘆する声と、悲鳴。喧騒の中で太った男が銃を掴んだ瞬間、震脚が地を揺るがす。伸ばした腕先に勁が走る。虎爪を型どる掌底── 絶招・猛虎硬爬山。


 銃がひしゃげ、垂れた腹にめり込んだ。太った男の両膝が折れ、地に吸い込まれる。顔面を地面に打ち付け、頭が跳ねた。血溜まりが滲み、拡がる。


 痩せた男が銃を投げ捨て、震える両手を上げていた。歯を噛み鳴らし、白蓮を見つめる。


 被りを振り、門前に立つ。振り返りながら、冷たい鉄に触れた。

「邪魔をするからだ」

 ざわめき、囁き続ける人々を一瞥し、門を押した。重く軋んだ音が、鳴り続けた。



一章『目的』 


第二話「茶碗陣」


 門をくぐると、街の喧騒に飲み込まれた。油が煮える匂い、客寄せの声、人混みに反響する雑談。空は緋色に染まっていた。闇が迫るまで止みそうにない。


 干した猪肉を懐から取り出し、齧る。咀嚼しながら、辺りを見渡した。宿の看板が目に入る。端が欠けて燻んだ木の板に、燕江宿場と書かれた文字。店内にはテーブルが幾つかあり、饅頭を摘んで茶を飲んでる客がいる。茶館を兼ねた、宿。懐に手を入れ、革袋に触れた。


 空いてる席に座ると、店主が訝しげに口を開く。

「珍しい服装だな。......茶で良いか?」

 黙って頷き、傷だらけのテーブルに肘を乗せた。ひび割れた壁から風が入り込む。茶碗を置いた店主が聞く。


「他になんかいるか?」

 首を振り、路銀を渡して蓋を取る。茶の表面に映る顔が、波打っていた。

「師父」

 瞼を閉じて、俯いた。湯気が、記憶を辿る。


────

 修練に向かう白蓮に、宗泰真が声を掛けた。立ち止まり、振り向く。黙って師父の言葉を待つ。泰真は熱い茶を一口啜り、静かに置いた。

「茶碗陣を幾つか教えておく。八極門のな」


「茶碗陣?」

 首を傾げて、師父を見つめた。

「お前の目的に必要だからだ。後数ヶ月で功が成るだろう」

 

「......白蓮。お前を拾ってから一度も言葉にしなかったな。仇討だろう。だが......止めはせん。お前の権利だ」


 沈黙の中で鳥が囀る。鳴き声が消えた時、頭を下げて唇を震わす。

「......ありがとう、ございます」

 景色が滲む。湯気が立ち昇る。消えて、また。


────

 隙間風に頬を撫でられ、目を開いた。テーブルに置かれた、茶碗。立ち昇る湯気を見つめ、摘んでいた蓋を茶碗の縁に立てかけた。腕を組み、じっと待つ。


 息を深く吐いた時、視線を感じた。目を向けると、白蓮を凝視しながら茶を啜る男が居た。体躯が良く、後ろに垂らした弁髪が肩まで伸びている。煤けた黒シャツを着た男が立ち上がった。



一章『目的』


第三話「田上十蔵」


 身体を揺らしながら近づいて来た巨躯が、床を踏む度に音を鳴らす。隣席にある椅子を引き、対面に座った。着流しを見ながら喋り出す。

「変な格好だなお前。俺も人のこと言えねぇけどな」


 弁髪に触れながら豪快に笑い、直ぐに唇を結んで蓋を手に取る。テーブルに乗せて、白蓮の顔をじっと見ている。白蓮は小指を茶に浸し、蓋に一滴、垂らした。

「ふーん。本当に八極門なんだな」


 弁髪の男が所作をまじまじと見つめる。

「探し人ね。見えてるそれ、刀傷か?」

 胸に手を添えた。疼く痛みが辿って行く。その先には虚空を見つめる、男と女。指に力が入り、着流しを強く握る。

「日本兵だな」

 白蓮の目が見開かれた。その瞳を、覗き込んでいる。

「田上十蔵、かもな。軍刀を好んで使う奴だ」


「......何処に居る?知ってるのか?」

 置いた手の下で、軋む音がした。指型に抉れるテーブルを見て、弁髪が笑みを浮かべる。

「知ってるかもなぁ。俺は顔が広い。お前の態度次第かな?」


 揶揄うような口調。拳を握り、席を立つ。弁髪は笑って見上げている。視線をぶつけ、内気を練る。店主がこちらを見ていた。勁が揺らぐ。大きく息を吐き、腰を下ろした。


 店主が大声で怒鳴る。

「揉め事はごめんだ。やるなら外でやってくれ」 

 弁髪が目尻に皺を作って店主に向く。

「すまねぇな。ほんの冗談さ。俺達は同門だ。なぁ?」

 唇を引き結んだまま、頷く。握り込んだ拳の力を抜いた。


 店主は目を細めてしばらく黙っていたが、首を振って厨房に引っ込む。

「俺は馬鉄柱。お前は?」

「......白蓮」

「......ふーん?」

 馬鉄柱が胸を反らせて首を捻る。


「明日、また来るわ」

 弁髪を揺らし、席を立つ。床を踏み鳴らして歩いて行く。その背中を、じっと見ていた。


 暗闇が外を覆っていく。革袋を取り出し、路銀を掴んだ。店主の元に、歩いて行く。



一章『目的』


第四話「カール・ヴォルフ」


 朝露が風に運ばれ、白蓮の額を濡らす。ゆっくりと瞼を持ち上げ、頭を横にした。窓枠だけの窓から冷たい風が入って来る。身体を起こし、饐えた臭いのする布団を剥がした。


 座禅を組んで瞼を閉じる。呼吸する度に内気を満たして。雑踏が聞こえた頃に、目を開いた。立ち上がり、紺色の着流しに袖を通す。帯を締め、髪を後ろに束ねて紐で括る。


『馬鉄柱。信用ならない。誤魔化すようなら、力ずくで喋らせる』


 拳を握り、腰を落とした。勁が通り──拳を突き出す。乾いた音が鳴り、羽虫の一部が指に付着した。払い落として部屋を出る。扉が無いが、気に留めることもしない。木造の階段を降りると、馬鉄柱がテーブル席に座っていた。


「おう。注文しといたぜ。食うだろ?」

 頷き、席に着く。鉄柱が弁髪を摘んで歯を見せた。

「知ってそうな奴がいる。ドイツ軍事顧問の残党だ」


「コイツは帰らねぇで賭け試合にハマったんだな。国に帰らず居残った奴だ。会うか?」

 鉄柱が窺う様に瞳を覗くと、直ぐに頷いて立ち上がる。


 笑って席を指差す。

「飯頼んでんだぞ。食ってからだ」

 厨房から煮込みの匂いが漂って来る。腹が鳴り、静かに頷いて座った。匂いが強くなる。店主が料理を運んで来た。


 豚の臓物を煮込んだモツが盛られている。テーブルに置かれた皿を見ながら鉄柱が続けた。

「名は、カール・ヴォルフ」

 店主が白酒も置いた。直ぐに掴んで、一気に飲み干す。


「おい」

 白蓮が口を開いた。

「この後そいつに会いに行くんだろ?そんなに飲んで大丈夫だろうな」

「水みたいなもんだぜ。お前も飲むか?」

 目尻の皺を深く刻んで、笑った。白蓮は溜め息を吐いて首を振り、皿に箸を伸ばした。


 鉄柱も箸を伸ばし、モツを摘んで口に放り込む。

「素直に喋んねぇかもな。そん時はしゃぁねぇ。力ずくだな」

「お前の知り合いじゃないのか?」


 咀嚼したモツを飲み込み、箸を止めた。

「良いんだよ。言ったろ?協力するって。なぁ、宗白蓮」

 言われて、黙り込む。鉄柱の瞳を、じっと見つめて。


 数人の客が雑談を交わしながら入って来る。店主の明るい声が響いていた。



二章『仲間』


第一話「魔都・天津」


 機関車が煙を上げて走っていく。線路はどこまでも伸びて。窓から覗く景色の流れを、ぼんやりと眺めていた。鳴いて暴れる鶏を、瓜皮帽を被った中年が抑えつけている。煙草を燻らせた軍服の男が、銃剣を握って中年に怒鳴る。


 白蓮の前に座る、朱いチャイナドレスを着た女。長い黒髪を掻き上げながら、軍服の男をじっと見ていた。機関車の床には向日葵の種がそこらに散らばり、喧騒と共に咽せ返るような臭いが充満している。木造の長椅子に腰掛けていたが、揺れる度に腰が浮く。


 隣の弁髪、馬鉄柱は酒を煽っていた。紅い顔で白蓮に話しかける。酒の臭いに顔を顰めながら、顔を向けた。

「天津なんざ久しぶりだ。ヴォルフの野郎、素直に喋りゃ良いけどな」

「田上十蔵。有名なのか?」


 鉄柱が酒を唇から離し、膝に置く。

「有名だぜ。腕の立つ奴を見つけては、死合いを挑んで斬り殺してたんだ」

 一口飲んで、続ける。

「ここ1年くらいは、噂を聞かねぇけどな」


 悲鳴が聞こえた。視線を移すと、軍服が中年の胸ぐらを掴んでいる。中年が助けを求めるように此方を見ていた。視線が、合う。白蓮は顔を逸らし、外を眺めた。女が静かに腰を浮かせ、重心を前に寄せる。


「オメェはほんと、冷たいねぇ。強くなれねぇぞ、そんなんじゃ。」

 眉間に皺を刻んだ白蓮が、鉄柱を睨んだ。構わず鉄柱は腰を上げる。揺れる車内を平然と歩いていく。弁髪が隆起した背を何度も叩くが、鉄柱の体幹はブレない。軍服の男が中年の胸ぐらを離した。銃剣を握り、剣先を鉄柱に向ける。機関車の車輪が軋み、車体が跳ねた。


 乗客の腰が浮く。軍服の男がバランスを崩し、片手で椅子を掴んだ。鉄柱が歯を見せて酒を飲み干す。右手を伸ばし、軍服に触れる。少し、押した。軍服の男から掠れた声が漏れ出る。白目を剥いて、崩れ落ちた。鉄柱が中年に向かって笑いかける。


「おう。大丈夫か?こいつは暫く寝たままだ。手加減したから死んじゃいねぇ」

 銃剣を拾って、へし折る。窓から投げ捨て、席に戻る。女が小さく手を叩いていた。にこりと鉄柱に微笑みを向ける。


 中年は伸びている軍服の男と鉄柱を交互に見た後、卵を取り出した。転びそうになりながら鉄柱に歩み寄って、卵を差し出す。

「ありがとう。これはお礼だよ。殺されるかと思った」

 頭を下げた中年に笑いながら答えた。

「おお。美味そうだ。あんがとな、おっさん」

卵を殻ごと口に放り込み、そのまま噛み砕く。

 目を丸くした中年を置いて、白蓮に話しかけた。


「もうすぐ着くぞ。しかしオメェ、人助けとかしねぇの?」

「俺に関係ないからな。それより、さっきのは浸透勁か」

 鉄柱が頷き、腕を組む。暫く白蓮を見つめて、視線を外した。

『浸透勁......到達点だ。師父と、同等。』


 蒸気機関車の速度が緩やかに落ちていく。やがて停車し、駅に着いた。


──魔都・天津。


 構内を出て振り返ると、機関車の黒い煙が昇っていくのが見えた。真っ黒な煙が空に滲み、ほどけていく。エンジン音が聞こえてくる。街に向き直ると自動車が行き交い、人力車がその中に混ざって走っていた。洋館と見慣れた造りの家屋が雑多に立ち並ぶ。女が長い黒髪を靡かせながら、洋館に向かって歩いていた。立ち止まった白蓮の肩を、鉄柱が叩く。


「ここらは混ざってんだよ。なぁに、びびるこたぁねぇ」

「......慣れない景色で戸惑っただけだ」

 手を払いのけて被りを振る。街並みを暫く眺め、歩き出す。


 屋台の一角から刺激的な匂いがする。それに被さる様に、煤の匂い。鐘の音が響き、喧騒と混ざり、拡がりながら白蓮を包み込む。鉄柱が手を挙げて先を歩く。その背中を見つめて、地面を踏み締めた。頭上から降り注ぐ陽光が、街の熱気を煽り続けて。



二章『仲間』


第二話「裏社会」


 帷が降りても闇に染まらない。煌々と輝く街並みを歩く影が二つ。魔都・天津の夜。時折聞こえる叫び声や、笑い声が反響していた。吐瀉物に混ざったアンモニアの臭いが、風に運ばれ白蓮の鼻腔に触れる。


「......酷い街だな」

 着流しの袖で口元を覆い、顔を顰めた。そのまま鉄柱を見ると、両手を広げてその場で回っている。

「そうか?俺は好きだぜ。飾ってねぇ。剥き出しだ。山と変わんねぇよ」


 立ち止まり、鉄柱をまじまじと見つめた。

「お前、本当に変わってるな」

「俺が変わってるように見えんなら、お前はまだまだってこった」

 鉄柱の笑い声が浮浪者の雄叫びと重なり、汚れた空気が濃くなっていく。建物が見えてきた。西洋の旋律が漏れ出る洋館の前に、何台もの車が停車している。


 洋館前に白人の男が二人立っていた。僅かにアルコールの臭いがする。黒いスーツ姿で懐辺りが少し膨らんでいた。体躯は鉄柱と変わらないか、少し上回ってるくらいだ。

「ちょっと待ってろ。」


 黒服に無造作に近づく。懐から木札を取り出し、何かを告げる。聞いたことのない言葉を話す鉄柱が、白蓮の方を見ながら親指で示す。黒服が木札を受け取り、笑って鉄柱の背中を軽く叩いた。肩を組んだ鉄柱が白蓮を見て、片目をつぶる。


 手招く鉄柱の方に歩いていく。黒服と目が合った。着流しを下からなぞる様に見た後、鉄柱に囁く。黒服が入り口に戻り、扉を開いた。

 

 部屋に入って直ぐに演奏者が目に入った。ピアノが鍵盤を叩き、ベースが弦を弾く。管楽器がテーマを吹き鳴らして。咽せ返る香水の匂い、焼ける肉の香ばしい香りが混濁していた。女が着飾り、恰幅のいい白人の男が北京ダックと点心を摘んでいる。


 鉄柱は給仕が運ぶ銀のトレイから酒を掴み、飲み出した。人々の視線が集まり、鉄柱と白蓮に注目する。直ぐに興味を失い雑談に戻っていった。白蓮が舌打ちする。

「何だここは?カール・ヴォルフは何処だ?」

「焦んなよ。地下だ。ちょっと飯食ってから行こうや」


 首を振り、鉄柱を睨む。

「腹は減ってない。行くぞ」

「ほんと余裕ねぇな、お前は。こっちだ」

 酒を飲み干し、肩をすくめる。会場の奥に進んで行き、ドアを開いた。薄暗い通路に細い階段が下まで続いている。ドアを閉めると部屋の喧騒が遠くなり、降りて行くと地下から歓声が聞こえてきた。


 地下の部屋に入る。白人、中国人が怒号と共に腕を頭上に上げていた。ひしめく人々の中央に、金網で覆われた囲いがあった。その中で白人と黒人が対峙している。


「お。あいつがヴォルフだ。丁度始まるとこだな」

 弁髪を摘みながら鉄柱が言う。白蓮は腕を組んでヴォルフを見ていた。


 金髪を短く刈り込んだ男──ヴォルフがリズムをとる。黒人の男が巨躯を揺らして突進した。ヴォルフは横にステップを踏み、側面に回り込む。黒人が直ぐに体を向け、拳を横から振り回す。ヴォルフが頭を後ろにずらし、鼻先を掠めた。


 大きく踏み込む。脇を閉め、腕を垂直に振り上げた。顎が跳ね上がる。巨躯が浮き、背中を石床に打ちつけた。砂が舞い、黒い顔を顰めて呻く。ヴォルフが拳を撃ち下ろした。


 鮮血が散り、石床を濡らす。撒かれた砂が染まり、大勢の怒号と歓声が闘技場を埋め尽くした。動かない巨体を大柄な男二人が運んでいく。振り返る事なく、ヴォルフが金網から出て来る。

「よし。行こうぜ」

 鉄柱が言って、人を掻き分けヴォルフに向かう。白蓮も後に続いた。


 ヴォルフの肩を掴み、口を開く。

「よう。カール・ヴォルフ。聞きたいことがあんだけど良いか?」

「馬鉄柱か。相変わらず馴れ馴れしいな」


「......こっちに来い」

 眉を顰めて、肩の手を払う。白蓮を一瞥し、鉄柱に顎をしゃくる。血の臭いが、僅かにした。



二章『仲間』


第三話「交渉」


 汗臭い、狭い部屋。控室のベンチに腰掛けたカール・ヴォルフがマッチを擦る。咥えた葉巻に近付け、息を吸い込む。マッチを床で踏み付け、煙を吐き出す。

「馬鉄柱。何が聞きたい?」

「おう。田上十蔵の居場所だ。お前、知ってんじゃねぇの?」

 葉巻を持つ手が止まる。灰皿に置いて、睨んだ。

「何故俺が知ってると思うんだ?」

「賭け試合の選手だ。腕の立つ奴を何人も抱えてたと思うんだが......」


 ヴォルフの目を覗き込む。

「ここ一年くらい、居ねぇよな。お前意外」

 ヴォルフがゆっくりと立ち上がり、近付く。低い声を吐き出した。

「試合しろ。馬鉄柱。お前に興味があった。俺に勝てれば紹介してやろう」


 周囲の景色が歪む。白蓮が内気を練り、剄を体内で巡らせていた。

「さっさと教えろ。俺が相手してやるよ。もう始めていいか?」

 ヴォルフが視線を向ける。控室に熱が籠り、空気が揺れた。鉄柱が白蓮の肩に触れ、練られた内気を散らす。白蓮が目を見開き、鉄柱を見た。


「オメェはほんと、落ち着けよ。おいヴォルフ、この白蓮が相手だ。良いな?」

「......良いだろう。明日の20時に試合を組む。その小僧も面白そうだ」

 口端を上げて白蓮を見る。葉巻を咥えて控室から出ていった。足音が遠ざかる。


「取り敢えず、寝床だな。腹も減った」

 巨躯を揺らして、笑いながら出口に向かう。白蓮が肩を掴んだ。

「何故止めた。試合なんかしないで、力ずくで喋らせれば良いだろう」

 笑顔が消える。静かに、白蓮の瞳を見つめて。

「俺が居なけりゃ、お前は死んでるだろうな」


 白蓮が腰を落とし、拳を突き出す。弁髪が、揺れた。右手で上に払い、右に半身で回転する。背中を、当てた──鉄山靠。身体が弾かれ、壁に叩きつけられた。部屋が揺れ、天井から塵が降る。


「加減したから動けるだろ?お前は強いかもしれんが......そのままだと田上に殺されるぞ」

 呻き、立ち上がる。また、腰を落とす。右手を伸ばし、掌を向ける。

「止めとけ。明日試合に出れなくなるぞ。田上に会いたいんだろ?」


 両手を下げて、その場に座り込んだ。床を見つめる。鉄柱が頭を掻きながら隣に座った。

「もっと冷静になれ。宗白蓮。師父が泣くぜ」

 胸の痛みと背中の痛みが、引いていた。俯きながら溜め息を吐く。電灯の音が鮮明に聞こえる。断続的に繰り返される響き。顔を上げ、壁を見つめた。


「......前もそう呼んだな。師父を知ってるのか?」

「知ってるも何も、俺の師匠よ」

 鉄柱に向き直る。胸を抑えて。

「俺はお前の兄弟子だ。ほんとオメェ、見てらんねぇわ」


 豪快に笑う大きな声が、身体に沁みて滲んでいく。釣られて笑っていた。



二章『仲間』


第四話「兄弟子」


 天津の夜に静寂が拡がっていた。洋館の明かりだけが街を照らしている様に見える。足音が二つ、響くだけで。浮浪者が転がっているのを横目に、宿に向かっていた。


「......功を成し、それを師父も認めた。だが、あんたに歯が立たない」

 冷たい風が紙屑を運んでいる。鉄柱はそれを見ながら隣で歩いていた。

「鉄柱。教えてくれないか。何が足りない?」

 砂利を踏む音が繰り返される。空を見上げて、足を止めた。


「少しマシになったと思うぜ。お前、笑ったろ?」

「あのままじゃヴォルフに負けてたかもな。まぁ、今なら勝てんじゃねぇか?」

 白蓮の背中を叩いて、歩き出す。並ぶ街灯の一つが、明滅していた。羽虫が灯りにぶつかり続ける。

「笑ったから、勝てる......」


「白蓮。功は成ったかもしれんが、それだけじゃダメだ。心と功が一致した時、爆発を生む」

 拳を揃えて、ステップを踏む。鉄柱の掌が前に突き出された。勁を纏って。


「あいつはつぇえぞ。まぁ、俺なら楽勝だけどな」

 笑い声が靴音を掻き消す。進む先に、宿の看板があった。鉄の板に天津宿場と書かれている。滲んだ文字が消えかけていた。扉の格子から光が漏れ出ている。鉄柱が目を擦りながら扉を開いた。


 カウンターに座った店主があくびをしながら二人を見る。懐から革袋を取り出すと、半分ほどの重さになっていた。

「一部屋かい?」


 黙って二部屋分の路銀を取り出し、店主に支払う。二階建ての宿で、一階と二階の部屋が空いていた。鉄柱が階段を上がっていくのを見届け、部屋に向かう。後ろから届く、あくびの声が耳に触れた。


 電灯を付けずに部屋の中央に座る。窓には硝子が張られ、冷気を弾いていた。煉瓦造りの高床に、薄い絹布団が敷かれている。座禅を組み、半眼を保つ。


『心と功。冷静に。......馬鉄柱。俺の、兄弟子か』


 身体が軽くなる。微笑を浮かべて。足をほどき、寝床に向かう。布団を被って瞼を閉じる。饐えた臭いは、しなかった。



二章『仲間』


第五話「西洋の技」


 硝子に浮いた露が、跡を残して流れていく。それを目線で辿っていた。部屋に陽光が入り込み、明るく照らしている。起き上がり、高床から降りて襟を正す。腰を落とし、腕を前に伸ばした。手を開け、左拳は腰に添えて。


 目を閉じて、息を吸い込む。ゆっくり、息を吐く。上下する肩から蒸気が昇り、掌が熱くなる。ドアが開いて、壁に当たる音が響いた。

振り向くと、馬鉄柱が立っている。

「眠れたか?時間もあるし、俺がいっちょ揉んでやるよ」


「ドアが壊れる。路銀が減るだろ」

 溜め息を吐いて、ドアに向かう。

「頼もうと思ってたとこだ」

 鉄柱の目尻に深い皺が刻まれ、肩を叩いた。

「素直になったじゃねぇか」

「調子に乗るな」

 肩の手を払って、先を歩いた。


 宿裏の狭い路地。紺色の着流しを着た細身の男と、弁髪を背に垂らした巨漢が対峙する。

白蓮が腰を落とし、掌を向けた。内気を練り、勁が巡りだす。鉄柱が軽いステップを踏み出した。左右に頭を振り、一呼吸で距離を詰める。


 白蓮も距離を詰め、短く息を吐いた。掌を打ち込む。鉄柱の耳横を抜け、弁髪に触れる。眼前に大きな拳が止まっていた。

「まず一本だ。ボクシングの拳は速い」

 動かずに拳を見つめる白蓮に、片目をつぶる。

「少し齧ったくらいだが、良い線いってるだろ?」


「......続けろ」

 白蓮が脇を締め、踏み込む。地面が沈み、土がへこんだ。肘の先端が分厚い胸に吸い込まれる──裡門頂肘。空を切る。鉄柱は横に回り込んでいた。脇腹に拳が触れている。直ぐに引かれた拳が、鼻先で止まった。土埃が舞い、ゆっくりと地面に還る。


 何度も繰り返される内に、街は緋色に塗り替えられていた。赤く染まった上空で鴉が鳴き、呼応した犬が吠えている。店主がゴミを捨てに勝手口を開けてゴミを投げ捨てた。二人を眺めて首を傾げ、ドアを閉める。乾いた音が空気に滲んだ。


 白蓮が天を見上げ、大きく息を吐く。足元には穿たれた跡が幾つもある。

「当たんねぇし、かわせねぇだろ?ボクサーの拳は速ぇし、かわすのも上手ぇ」

 向けられた白蓮の瞳。鉄柱が、覗いた。

「八極拳は強いが、無敵じゃねぇ。直線的すぎるんだ。......だがな、当たりゃ勝ちだ」


 掌を拳で叩いて、歯を見せた。揺れる弁髪から視線を逸らし、拳を見る。

「お前は強いが、八極拳しか知らねぇだろ?そこが弱点だ。短気なとこもな」

「後は自分で考えろ。腹減ったし、飯食ったら行くぞ」


 頷き、歩き始めた鉄柱から伸びる影を、ゆっくりと追いかけた。



二章『仲間』


第六話「劣勢の中で」


 割れた中身から、肉の匂いが届いてくる。金網の外で饅頭を齧り、腕を振り上げている東洋の薄汚れた服を着た男。腹は充分に満たされている。ここに来る途中で麺を啜り、干し肉も齧ったからだ。


 皆、着流しを指差している。笑う黒人の太った女。顔を顰めるシルクハットを被った、恰幅の良い白人。長い髪を後ろに纏め、白蓮を見つめるチャイナドレスの女。背後の金網越しに、鉄柱が腕を組んでヴォルフを見ていた。


 白蓮が静かに歩み寄り、ヴォルフの目の前に立つ。黄土色のタンクトップを筋肉が引き伸ばし、迷彩柄のズボンの生地を太ももが押し広げていた。見上げると、刈り込んだ短い金髪に切り傷が見える。そのまま、視線をぶつけた。

「約束を守れよ」


「小さくて細いな。死ぬかもしれんぞ。お前」

 ヴォルフが一歩下がり、右拳をゆっくりと伸ばす。

「拳を合わせろ」


 顎でしゃくって促す。白蓮は腰を落として右腕を伸ばし、蓄勁を施す。ヴォルフの拳に触れた時、向けた左脚を踏み出し、石床を砕く。左腕が突き出される。勁が右腕から腰を伝わり、左拳に走る──馬歩衝捶。ヴォルフは後方に飛びながら、両腕を交差させる。腕に拳が触れたが、二間の距離を取られていた。


 ヴォルフは腕を一度振って、視認した。刻まれた痣が、白い肌を紅く染める。両拳を目の前で固めた。

「戦いを知ってるんだな」

 半身になってステップを踏む。体を揺らし、顎を引き、頭を振る。細かく床を蹴りながら、白蓮の周りで円を描いた。


 身体の軸を回し、ヴォルフの正面を捉え続ける。ヴォルフが飛び込み、左拳を突き出す。白蓮の頭が後ろに弾けた。何度ものけ反り、視界が滲む。総髪は乱れ、結った髪がほどける。右掌は伸ばしたままで。


 右に飛んだヴォルフが屈み、脇をたたんで斜めに突き刺す。脇腹に鈍い痛みが走った。右掌が下がる。口から溢れる涎が床に滴り、赤黒く染まった石床を濡らした。頭上から拳が降ってくる。右頬が歪み、細かく震えた。床に敷かれた砂が舞い上がる。


ヴォルフが鉄柱を指差した。

「馬鉄柱。金網に入れ。俺に勝てば田上を紹介してやるよ」

 笑いながら鉄柱が歯を見せた。白蓮に向けて。

「立てんだろ?一撃だ。立って決めろ。俺の出番なんかねぇぞ」


「小僧は死んだ」

 首を振りながら白蓮に視線を移す。口が僅かに開き、声が漏れた。

「生きてるのか」


 右掌をヴォルフに向け、腫れ上がった口で微笑む。脱力し、腰を落とした。勁が、巡る。


 悲鳴と怒号が飛び交う会場が、熱を帯びる。

紅色の着流しが、歓声に揺れていた。



二章『仲間』


第七話「浸透勁」


 耳鳴りがする。視界が塞がり、景色が歪む。鼻と口から流れ出るものが、顎を伝って零れ落ちる。ゆっくりと、落ちていく。拳が伸びて来た。ゆっくりと、伸びて来た。力が入らず、脱力している。身体が、軽い。金網の向こう側で、見慣れた弁髪が此方を見ていた。


 拳が、迫ってくる。頭を僅かに揺らせて、もたれかけた。拳が頬を掠っていく。右手でタンクトップを掴んでいた。


 左掌を男の胸に添えて、微笑む──少し、押して。


 ヴォルフが目を見開く。血流が波打つ。波紋が拡がり、体内を巡る。目の前の男は、血まみれで己にもたれかかっている。力が抜け、膝が崩れる。咳き込んで、喀血した。石床に両手をつき、蒼い目で見上げる。眼前に掌が止まっていた。総髪の男が、笑みを浮かべて。


 眼球が上を向き、視界が──閉じた。


 視線を外し、顔を上げる。腫れ上がり、切れた唇。紐が千切れて乱れた総髪。紺色を紅く塗られた着流し。静寂が続く。誰かが、叫んだ。怒号と喝采、悲鳴が交わり、混濁のまま反響する。金網が揺れ、人々の足踏みが地鳴りを起こす。両膝を石床に着けて両手を下げた、金髪の男。俯いて動かない。


「おう。一撃だ。やりゃできんじゃねぇか。オメェは普段、力みすぎなんだよ」

 鉄柱が金網の中に居た。引き起こされて、肩に担がれる。


「そうだ。路銀増やしといたぜ。オメェに目一杯賭けたからな」

 肩の上で吹き出した白蓮を見ながら、片手で酒を取り出す。一口飲んで、豪快に笑った。目尻の皺を、深く刻んで。


「使えたぞ」

「浸透勁か。まぁ、まだ偶然一致したってとこだな」

 金網に触れない様に出口をくぐる。進む先に居る罵声を飛ばしていた男達が黙り、避けていく。控室に向かい、ドアを開けた。肩から降ろし、ベンチに寝かせる。


「少し休んどけ。ヴォルフの様子を見てくる。死んじゃいねぇとは思うが」

 ドアを閉じた風圧で埃が舞う。電灯の下で点滅して見える。半眼から、膨れた瞼を閉じた。口内に拡がる錆の味。飲み込んでも、直ぐに湧いた。


 鼻に乾いた血糊が剥がれ落ちる。寝息が部屋を、満たしていた。



二章『仲間』


第八話「朱鳳凛」


 歩き去る人波の渦に、女が佇んでいた。深い朱で染められたチャイナドレス。長い髪を後ろに結っている。控室に向かい、足を踏み出す。スリットから覗く引き締まった細い両脚が、硬く澄んだ音を交互に鳴らす。


 人が捌けた広い部屋を進み、金網の横を通り過ぎる。細い通路に入り、突き当たりのドア前で立ち止まる。ドア越しに声が漏れ聞こえた。ノブに手をかけ、軽く捻る。


 カール・ヴォルフがベンチに座り、胸を抑えていた。その傍に居る弁髪の巨漢と視線が合う。

「田上十蔵を知ってる女だ」

 ヴォルフが顎で示す。弁髪の男が瞳を覗いてくる。


「見たことあるな。あんた」

「一度、会いましたね」

 結った髪から溢れる鬢の毛を垂らし、会釈した。

「朱鳳凛と言います。汽車での振る舞い、見事でした。田上との死合いをご希望ですか?」


「馬鉄柱だ。俺は別にやりたくねぇ。賭け試合見てたろ?あいつに聞かねぇと」

「あの青年ですか。田上と会う資格はありそうですが、おそらく殺されると思いますよ」


 葉巻を咥えて、マッチを擦る。揺らめく火が、先を焦がす。紫煙を吐き出し、蒼い目を細めた。

「珍しいな。老婆心か?俺は約束を守る。田上もあの小僧に興味を持つはずだ。会わせてやれ」

 切れ長の目を閉じて、息を吐く。ゆっくりと瞼を上げ、鉄柱に視線を合わせる。

「一度本人と話しましょうか。その時に値段交渉もします」


 鉄柱がヴォルフに向き直り、両手を上げた。

「金がいるのか?そりゃねぇだろ。約束に無かったぜ」

「芝居は辞めろ。わかってるんだろう?小僧に支払う金の値段交渉だ。田上は強者と死合がしたい。俺が選りすぐった相手を斡旋する。俺の取り分は4割だ」


 胸を抑えて咳き込むヴォルフを見て、鉄柱の口端が吊り上がる。何度も頷き、手を叩いた。

「正直になったな。良い商売だ。賭け試合の選手がそのうちいなくなっちまいそうだ」

「いくらでもいるさ。強者はな」


 鉄柱が朱鳳凛に向けて片目をつぶる。

「案内するぜ。白蓮の元にな」

 朱鳳凛が薄い唇に微笑を湛え、踵を返してドアに向かう。朱い裾が僅かに靡く。長くしなやかな指がノブを包み、静かに開いた。


 馬鉄柱が後に続き、閉じた部屋に乾いた音が響く。咳き込む男が、残されていた。


三章『傷痕』


第一話「仇」


 刀身を伝い、流れて行く。切先に溜まった丸い粒が膨らみ、零れ落ちた。畳を紅く濡らし、深く沈んで。引き抜かれ、支えを失い仰向けに倒れた。眼は見開かれ、虚空に向く。少し、口を開いた。くぐもった、掠れた声。

「田上──」

 男が握っていた刀が、畳に跳ねて転がった。


「一人にはならん。家族共々送ってやるからな」

 軍刀を振り、滴を飛ばす。畳に幾つも染みを残し、歩いて来る。


 少年を庇い、覆い被さる女が震えていた。身体が、動かない。

「情けない小僧だ。守られてるだけか」

 刀身を傾け、上段に構える。薄い唇を線に結んで。


「一刀だ」

 閃く残像が網膜に焼き付く。刃が女の身体を通り抜け、少年の肩に潜り込む。腰から抜けた切先を返し、鞘に納めた。目の前に両断された骸が横たわり、瞳が虚空を映す。

 

 混ざり合う血溜まりに浸されながら、鋭く澄んだ音を聞いていた。



────

 僅かに澄んだ音が鳴る。視界の端で鉄柱が革袋を持って座っていた。着流しが湿り、総髪が濡れている。傷が疼いて胸を抑えた。顔を顰め、深く息を吸い込んだ。


「酷くうなされてたな。こいつはお前のだ。受け取れ」

 両手で抱える程の大きさだが、鉄柱の巨大な手で鷲掴みにされていた。ゆっくりと身体を起こし、受け取る。重く、硬い。

「これは?」


「賭け試合の報酬と、鉄柱さんがあなたに賭けて得たお金ですよ」

 朱いチャイナドレスを着た女が、薄い唇を広げて微笑んでいた。切れ長の奥で白蓮を映す。

「誰だ?」

「朱鳳凛と言います。ヴォルフとの試合を拝見しました」


 革袋を傍に置き、女──朱鳳凛を見た。白く細い腕が、滑らかな軌道を描く。胸に掌を添えて、鬢の毛を垂らす。

「あんたが田上を知ってるのか?」

「田上との死合いを望まれますか?」


 立ちあがり、鳳凛に詰め寄る。肩に触れた瞬間、白い細腕が円を描く。細い指が腕に絡まり、背を下に押される。膝から力が抜け、冷たい床に片手を着いた。掴んでいた腕を離し、朱い裾が僅かに靡く。

「心が乱れてますね。それに、身体も」

 

 分厚い手が腰に触れた。抱えられ、ベンチに寝かされる。浅い呼吸を繰り返す中で、背中で揺れる弁髪を映していた。

「八卦掌か。見事なもんだ」

「......いえ。では、療養して下さい」


「また、来ます。報酬の交渉はその時に」

 睨みつける白蓮に被りを振り、ドアに向かって靴音を刻む。ノブを握り、振り返った。

「白蓮さん。止めた方が良いですよ」


「お前に、何が分かる」

 傷跡が痛む。手負の獣が、咆哮した。空気を震わせ浴びせかける。朱鳳凛が僅かに後ろを踏んで、切れ長の目を見開いていた。


「......なるほど。ヴォルフが勧める訳ですね」

 スリットを翻し、歩き去った。閉じたドアに、朱い残像を残して。

 


三章『傷痕』


第二話「契約」


 宿の屋根を、雨粒が叩いている。窓硝子にぶつかり、露となり、垂れて──零れる。その繰り返しを、眺めていた。


 頬に触れると、腫れはもう無くなっている。高床から飛び降り、右掌を眼前に置く。息を吐きながら伸ばし、内気を練り、勁が走る。足から腰、突き出した左掌へ。空気が、歪んだ。


 両脇を締めて、両拳を顔の前に置く。ステップを刻み、肘から直線に伸ばし、直ぐに引いた。

「ボクシングか」

 馬鉄柱が音も無く背後に立っている。

「田上十蔵。剣術の達人だ。八極拳の直線的な動きじゃ、懐に入る前に斬られるだろうな」


 身体を回し、拳の甲が鉄柱の鼻に吸い込まれる。弁髪が少し揺れた。空を切り、鉄柱の右拳が鼻先で止まっていた。

「フットワークなぁ。お前にはそれ、合ってなさそうだけどな」


「あんたは使えるじゃないか。まだ慣れてないだけだ」

 階段を踏む音がする。何度か繰り返し、ドアが開いた。店主の顔が覗いていた。

「女が来てるぞ。白蓮を呼んでくれって」


 顔を見合わせ、階下に向かう。朱いチャイナドレスの女が、席に着いて茶を啜っていた。テーブルに置いて、にこりと微笑む。鬢の毛を二つ垂らして会釈する。

「身体は癒えたようですね」

「ああ。もう戦える」


 白蓮をじっと見つめ、鉄柱に視線を移す。

「あなたは、勝てると思いますか?」

「正直キツイだろうな。白蓮は素手、田上は軍刀。しかも、剣術の達人だ」


 雨粒が宿を細かく叩き続けている。連続する音の中で、白蓮は静かに鳳凛を見ていた。自分の拳を眺め、また視線を戻す。朱い裾を揺らして、歩み寄って来た。

「八極拳の絶紹と八卦掌の歩法を組み合わせれば、勝機はあるでしょう。学びますか?」

「田上に不利になる事を、何故」


 視線を留めたまま、目を細めた。女の鬢の毛が、僅かに跳ねた。

「私では倒せないからです」

「田上の仲間じゃないのか?」

 切れ長の目が白蓮の瞳に映り込む。薄い唇に、微笑を讃えて。

「学びますか?これが条件。死合いの報酬は、革袋三つ分支払います」


 弁髪を振って豪快に笑い、白蓮の肩を叩いた。

「おう。決まりだな」

 分厚い手を払い退けて、着流しを正す。深く、頭を下げた。

「朱鳳凛。よろしく頼む」

「では、明日から。此方こそよろしくね。白蓮」

 高く澄んだ声。店主に細い指を三本立てて、お茶を頼んだ。鉄柱は白酒を注文する。


 鳥の囀りが響いている。雨の音は、聞こえなかった。



三章『傷痕』


第三話「歩法」


 鶏が鳴き、太陽が悠然に昇る。薄暗い中を、浮浪者が千鳥足で歩いていた。歌っていると、地面を揺する音が響く。紅く染まった顔を向け、聞こえた路地を覗いていた。変わった服を着た男と、朱いチャイナドレスの女が戦っている。


 勁を込めずに拳を突き出す。鬢の毛が靡いて、空を切った。朱い身体が左掌を顔の前に伸ばし、右掌を胸の前に置く──龍形。


 半身で軸を保ち、緩やかに横に回り込む──走圏。細い腕が螺旋を描き、勁を纏う。両腕を拡げ、旋回した──葉底蔵華。


 胸に迫る掌を男が左手で受け、右手を上げて払った──順纒絲。捌かれた女が背後に回り込む。両手を握り、左手は頭、右手は胸を狙って反転する──反背捶。男が振り向いた時、拳は眼前で制止していた。


 口を開けて見ていた浮浪者が、大きく息を吐いてその場を去って行く。


 宿の裏で、白蓮と朱鳳凛が対峙している。視線を重ねて、スリットの脚を指差す。

「......それが必要だ」

「この歩法を、走圏と言います。本来なら龍形を覚えなければいけません」

「必要なら、覚えよう」

 唇を硬く結んで胸を抑える。傷が、疼いた。


 抑える手を見つめて、視線を外す。切れ長の目が白蓮の顔に定まる。

「......白蓮。あなたはその構えのまま歩法を取り入れた方がいいかもしれませんね。身体の軸は真っ直ぐ通っているようですから。走圏で躱し、絶招を放てれば勝機はあるでしょう」


 笑みを浮かべて、抑える手を下ろした。腰を落とし、右掌を伸ばす。左拳を腰に添えて。内気を巡らし、静かに円を描いて回る。震脚が地を揺るがす。伸ばした腕に、勁が乗らない。虎爪を型取る掌底──


 細い目を見開き、顎に手を添えた。

「何度も繰り返してください。歩法は出来そうですね」

 薄い唇に引かれた紅が微笑む。


「ああ。動きは覚えた」

「軸は真っ直ぐ通ってましたが、震脚の際にズレてました。また、来ます」


 真上から降り注ぐ日差しが、白蓮を照らしていた。会釈する影に、影が重なる。顔を上げた瞳に、朱い背中を映していた。


 

三章『傷痕』


第四話「戸山流」


 山西省・古都太原。城壁が四角く囲い、分厚い門上には楼閣が見える。門をくぐると、風が吹き、土を巻き上げる。一帯が黄土色に覆われ、街全体を塗り潰していた。


 城壁の下に立ち並ぶ、棚子の小屋。崩れた煉瓦と泥を固めた煉瓦を積み上げ、木板を立てかけて造られている。地面は湿った黒い泥で覆われていた。


 朱いチャイナドレスの女が、背筋を伸ばして歩いている。並んだ家屋の中で、大きな建物があった。石造で出来ている。黒塗りの板塀で囲われていた。


 塀を抜けて玄関を横切り、松が生えた庭園を横切って行く。池を越えると、巻藁が見える。その横に縁側の廊下に腰掛けた男が居た。茶を啜り、女を見る。


「凛か。どうした?」

 朱鳳凛が頭を下げた。白髪混じりの髪を、肩まで伸ばした和装の男──田上十蔵に。

「死合いの相手が見つかりました。もう少し、準備に時間がかかりますが」


 腰を上げ、顔の皺を深く刻む。傍に置いた軍刀を掴んだ。巻藁に近付き、柄を握る。右腕が弧を描き、刃が下から斜めに閃く。戸山流抜刀──逆袈裟斬り。断たれ、僅かにずれる。音は、しない。


 獅子おどしが、鳴った。


「楽しめるだろうな?」

 鞘に納めると、澄んだ音がした。向き直る。眼光が、朱鳳凛を射抜いた。細い腕を組み、視線を外して薄い唇を開く。

「......ええ。楽しめます。歩法を教えました」


 しゃがれた笑い声が響き、松に留まっていた鳥が枝を蹴った。

「待つとしよう。儂が敗れることを期待しろ。足りなければ、教えてやれ」


 鬢の毛を垂らし、顔を上げた。踵を返して歩き出す。背中に、声が飛んだ。

「凛。儂に暗殺の仕事が入っておる。暫くおらん。その間に仕上げてやれ」

「わかりました。また、来ます」


 振り返らずに砂利を踏む。乾いた空気が、唇を乾燥させていた。

 


三章『傷痕』


第五話「再会」


 硬くなった左脚を揉む。括られた総髪を見ながら右脚に移り、力を入れる。窓硝子は開いていた。風を浴びて弁髪が揺れる。

「硬くなってんな。ものに出来そうか?」


 うつ伏せに寝ていた白蓮が、瞼を開けた。上半身を傾け、鉄柱に視線を向ける。

「もう少しかかりそうだ。思ったより負荷がかかる。助かるよ、鉄柱」

「......どうした?いやに素直になっちまったな。こりゃあ期待できるぜ」


 口を大きく開けて笑う鉄柱を睨み、頭を戻して目を閉じた。膝を叩いて巨躯が立ち上がる。

「ほぐれたぜ。まぁ、頑張れ。俺は少しぶらついてくるわ」

 呼吸音だけが聞こえる。瞼は、閉じて。鉄柱が眉を上げて口元を緩める。


 静かにドアを開き、ゆっくりと閉めた。階段を降りると店主が酒を汲み出す。鉄柱が手を横に振ると、店主は片目を細めて口を窄めた。


 笑いながら外に出ると、喧騒が身体を包み込む。張り詰めた黒シャツを撫でて、歩き出した。足音も無しに巨躯が進む。車が通り過ぎる先に屋台が見えた。煤の臭いに、蒸された香ばしい匂いが混ざって。


 弁髪が浮いて、振り返る。黒いスーツを着た中年男が視線を向けていた。男が頭を下げる。

「やっぱりそうだ!あの時はありがとうございました」

「卵くれたおっさんか?見違えたな、おい。あんたもっとこう、汚くなかったか?」


 中年男が頭を掻いた。唇を歪めて笑う。

「めちゃくちゃ言いますね......でもこの再会に感謝します。あなたの腕を見込んで、是非お願いしたい事が」

「おう。だが俺も暇じゃねぇ。内容次第だな」

 中年の瞳を覗き込み、口を閉じる。


「ここでは何ですので、食事でもしながら宜しいですか?勿論私が出しますので」

「良いぜ。聞いてからだ。......腹減ってるしな」

 スーツの襟を正して、頭を下げる。

「私は、郭文徳と申します」

「馬鉄柱だ。肉が食いてぇ」


 郭が笑い、指を指す。

「あそこに美味い肉料理を出す店があるんですよ。行きましょう」


 煙突から煙が吐き出されていた。緋色に染まる空を、黒く彩る。洋館が並ぶ一角に歩き出す。鉄柱がにこりと笑って、頷いた。



三章『傷痕』


第六話「依頼」


 肉の匂いが漂う建物は、赤茶色の煉瓦で出来ていた。石造の窓枠に硝子が嵌め込まれている。入り口は木褐色の木板に、真鍮の取手が付けられていた。扉の横には鉄の看板に『Alte Burg』と記されている。電灯には橙色の明かりが灯されていた。


「古城か」

 呟くと、郭が目を見開く。

「読めるんですか?」

「まぁな。ドイツ人のダチが居るからな」

 扉を開くと、焼いた肉の匂いアルコールの匂いが漂っている。鼻を鳴らして奥へ進む。


 模様が描かれた分厚い椅子とテーブルが並んでいる。一卓、空いていた。梁を巡らせた天井には鉄の輪が並び、淡い光が店内を照らす。壁に張り付いた鹿の首を見ながら、席に着いた。


 郭が店員を呼び、注文をしている。鉄柱がメニューを手に取り、指差した。

「これだな。でかい肉だ」

 店員が頷いて厨房に歩いて行く。


 鉄柱が腕を組んで、店員の後ろ姿を見ていた。郭に視線を移し、顎をしゃくる。

「あなたにお願いしたいのは、私の護衛です」

「あんた、狙われてんのか?何故だ?」


 項垂れて、額に触れる。ハンカチを取り出して、握りしめた。

「私はここ最近で成り上がった商人です。古くからの大商人と繋がっていた客を取ってしまったんですよ。その客は見せしめで殺されました。そして、私の護衛も」

「何の商売だ?」

 

「阿片です。畜産もしているんですけどね。最近は阿片が儲かるので、集中していました。それが、こんな事に」


 鉄柱が厨房を振り返り、郭に向き直る。白人がジョッキを合わせて音を鳴らす。

「ふーん。殺し屋かな。どんな殺され方だ?」


 額を拭い、唇を噛む。

「斬り殺されてました。見事な切り口で」

「......偶然があるかもな。面白そうだ。受けてやるよ」

 郭文徳が両手を差し出し、鉄柱の大きな手を握った。深く、頭を下げる。

「ありがとうございます!」


 厨房から巨大な皿を、店員が運んで来る。鉄柱の分厚い指が、焦げた骨を掴む。肉と共に噛み砕きながら、咀嚼する。郭が頭を掻いて、呟いた。

「何でも、丸ごとなんですね......」


 白人が掲げるビールジョッキを横目に、店員を手招く。肉を飲み込み、ビールを注文した。


 遠吠えが聞こえる。窓の外で、野良犬が怯えていた。



三章『傷痕』


第七話「護衛」


 宿裏の路地で、紺色の着流しが揺れ動く。掌を伸ばして脚を交差する。変則の龍形──走圏。地面の土が円状になぞられていた。


 跡の上で靴底を落とす──震脚。足首まで沈み、土埃が舞う。勁が脚を昇り、腰を伝って腕を走る。虎爪を型取る掌底──絶招・猛虎硬爬山。空気を切り裂き、景色が歪んだ。大きく息を吐く。


 背後から野太い声が聞こえた。振り向くと、鉄柱が肩を揺らして歩いて来る。

「おう。出来たじゃねぇか。しかし、脚が震えてるな」

「ああ。初めて成功した。修得にはまだ時間がかかる。あんた、何処行ってたんだ?」


「まぁ、ちょっとな。オメェ、今日はもう休んだほうがいいぜ。良くほぐしとけ」

 陽射しが路地裏に入り込んでいた。頭上に輝く太陽が、白蓮の影を短く写す。じっと鉄柱を見つめて、溜め息を吐く。


「何をしてるのか知らないが、気を付けろよ」

「おいおい。心配してんのか?」

 笑いながら背を向けて、弁髪を揺らす。

「ありがとな」

 路地を抜け、遠ざかる背中が見えなくなる。

呼吸を整え、拳を開いた。


────

 雲が緋く染まり、街灯に明かりが点き始めた。巨躯の影が薄く伸びている。その先には、四合院の屋敷があった。灰色の煉瓦の壁で囲い、分厚い扉には獣面の叩き金が付いている。左右の石獅子が鉄柱を睨む。


 叩き金を掴んで、何度か硬い音を打ち鳴らした。扉の向こうで、気配がする。厳かに軋み、開いた。


 短い髪の、青龍刀を持った男。片目が無い、棍を握る男。頬に傷が有る、徒手の男。郭文徳が男達の後ろから出て来て、頭を下げる。

「鉄柱さん!来てくださって、ありがとうございます!」

「......おっさん。出て来ちゃダメだろ?」


 頭を掻いて男三人に視線を移す。

「護衛か?」

「ええ、専属の護衛を雇っています。鉄柱さんとこの三人なら、何の問題もないでしょう」


 五人は青龍刀の男を先頭に、郭を挟んで細かい彫刻が施された影壁に沿って進む。鉄柱は最後尾を歩く。壁を迂回すると、中庭に出る。回廊沿いに紅い柱が並び、濃い影を落とす。


 風が撫で、柳がざわめく。提灯の淡い光が揺らめいて。闇が深まり、月光を浮かべた。



三章「傷痕」


第八話「凶刃」


 焦げた甘い、泥臭い匂いが漂う部屋──正房。中庭を抜けて通された部屋には、黒檀で出来た机と椅子が並んでいた。部屋を仕切る屏風が幾つか立っている。奥には寝台が置いてあり、周辺にパイプが散乱していた。


 電灯の光が、淡く照らす。


 鉄柱が鼻を摘んで、顔の前で手を振る。

「阿片なぁ。体に良くねぇんだぞこれ。おっさん、ほどほどにしろよ」

「面目ない。気を紛らわそうと、少し......」

 郭は頭を掻いて、俯いた。様子を見ていた護衛の一人が石床を踏み、鉄柱に近付く。


 青龍刀を腰に差した、体格の良い男。

「王峰林だ。よろしくな」


 片目の棍を握った男が立ち上がり、鉄柱に会釈する。

「呉宇軒です」


 頬に傷がある、痩せた男が石床に座ったまま鉄柱を見た。

「趙崩山」

 直ぐに視線を落とし、暗器を拭う。鉄柱が三人に順に視線を送り、目尻に皺を寄せた。


「馬鉄柱だ。頼もしいねぇ。あんたら、腕が立ちそうだな。全員聞いたことがある名だ。よく集めたな、おっさん」


 青龍刀を撫でて、扉に向かう。

「俺は影壁で待つ。異変があれば呼ぶ」


 王が出た後、棍を握った片目の男が動き出す。

「私は中庭で」


 呉が扉をくぐると、趙が壁を蹴り、天井の梁に登った。弁髪を巡らせ、郭に向く。

「おっさんと俺はここで待つぞ。暗器の兄ちゃんも上で見てるしな」



────

 王は影壁にもたれて、目を閉じていた。明かりが揺れた。空気が、歪む。目を開き、青龍刀を抜いた。

「暗殺者らしくしろよ。殺気を隠す気も無いとはな」


 柳が揺れ、黒装束の男が飛び降りる。軍刀の柄に手を添えた。白髪混じりの、肩まで伸びた髪。じっと王を見つめ──笑った。

「王か。知ってるぞ。これは楽しめそうだな」


 王が左掌を前に出し、青龍刀を腰に添えた。形意拳──三体式。脚に体重を乗せて、踏み込む。左腕を伸ばし、刃の先端が黒装束に吸い込まれる。青龍偃月刀──刺。


 白髪を靡かせ、摺り足で横に回り込む。空を切った刀身を柄で弾いた。刃が、閃く──逆袈裟斬り。王が青龍刀を手放し、後に下がる──跟歩。


 血飛沫が舞う。胸を抑えて、跪いた。額から流れる汗と、口から溢れるものが混ざる。薄くなったそれが、床を濡らした。拡がっていく。


 引き抜いた刃を振り、白髪が僅かに揺れた。

「引くのが少し遅かったな。もう少し楽しめるかと思ったが。残念だ」


 軍刀が王の胸板を貫く。仰向けに倒れ、空を見ていた。暗く、滲んでいく。

 


三章「傷痕」


第九話「盲目」


 振り向くと、棍を握った男が棒先を向けていた。白髪混じりの男を睨んでいた。

「遅かった。一瞬だったようですね」

「お前も知ってるぞ。呉宇軒。片目で棍を好む奴だったな」


 低く笑い、柄に触れる。

「王といい、よく集めたものだ。郭と言う男、余程命が惜しいらしい」


 呉は腰を落とし、内気を練る。握った手から、棍に勁を走らせた。

「名は?」

「田上十蔵」


 回転し、振り上げた棍を力を込めて振り下ろす。少林拳・斉眉棍 ──劈棍。床にぶつかり、穴を穿つ。


 田上が棒先を踏み締め、固定する。抜かれた刃が跳ね上がり、断ち切った。残像を残して振り降ろされ、三つに分かれた。呉は短くなった棍を手離し、後方に飛ぶ。


 軍刀を納刀し、笑みを浮かべて首を傾げる。

「ほう。王よりやるな。全盲だな?片方だけでは無い」


 眉間に皺を寄せ、右目の瞼を閉じた。

「何故、分かった?」

 右拳をこめかみに付け、前に出した左脚の太腿に左拳を乗せた。北派少林拳──坐山勢。


「お前がまだ生きてるのは、そのおかげだからだ。......仲間を呼ばんのか?まだ居るのだろう?」

「......王も私も、武人と言うことだ」

 半身から左掌を前に突き出し、右拳を腰に添える。左脚を膝から直角に曲げ、重心を掛けた。右足を後ろに伸ばす。北派少林拳──弓歩。


 床を蹴る。足跡を残し、右足の爪先が黒装束の胴に掠る──弾腿。田上が摺り足で側面に滑り込む。軍刀が抜かれ、斜めに跳ね上がった。跳躍した呉の右足に切先が潜り、飛沫を散らす。


 宙を回転しながら呉の左脚が振り下ろされる──風脚。軍刀の柄が左足首にめり込んだ。かち上げられた身体が、床を二度跳ねる。倒れた呉が足底を地につけ、崩れ落ちた。右脚の腱が切れ、左足首の骨は粉砕している。生地は濡れて粘つき、肌に張り付く。


 田上が切先を向けた。

「楽しめたぞ。こうでなくてはな」

 納刀し、ゆっくりと歩み寄る。呉の口端が上がった。

「叫べば良かったかもしれないですね」

 軍刀が風を切る。首筋に赤く線が引かれた。

黒装束に染みを残し、白髪混じりの下で目を細めた。

「思ってもないことを」


 正房に向かって進む。柱が立ち並んでいた。風が吹くたびに、影が揺れて。


 首から噴き上げていた鮮血が、勢いを無くしていく。虚な瞳が、月を見つめて。




三章「傷痕」


第十話「掌と刃」


 鉄柱が鼻を鳴らす──鉄錆の、臭い。

「おっさん。来たようだぜ。阿片の臭いに混ざってるが、血の臭いがする。殺気を隠す気もねぇようだ」

 扉が、静かに開いた。


 趙が飛刀を投げる。影に沿った鏢と共に。白髪混じりの顔の前に、鞘から抜かれた軍刀の刃。金属音が二つ響く。


 黒装束の指先が見え、空気を切り裂く音が混ざる。

「鏢が本命か。毒を塗っとるな」


 趙が梁から現れ、黒檀の机に落ちてきた。胸に小柄が刺さっている。大きく口を開け、喀血した。細く息を吐いて、止まる。


 鉄柱が黒装束の瞳を覗き込む。

「田上十蔵か?」

「そうだ。......弁髪。馬鉄柱か。これは、楽しみだ」

「偶然があるかと思ったが、ありやがったな」


 郭文徳は奥の寝所で布団を被っていた。震え、両手を合わせて。


 軍刀の柄に手を添えた。

「標的などどうでも良くなったわ。久しく強者が居らなんだが、今日は王、呉の二人。そして馬鉄柱。郭文徳に感謝せねばな」

 田上の貌に笑みが溢れ、歯が剥き出しになる。


 鉄柱が両手を下げたまま、勁を巡らす。内気は満たされていた。

「お前じゃ俺に勝てねぇけどな」


 摺り足が滑る。軍刀が抜かれ、刃が走った。巨躯が後ろに逸れる。切り上げた切先が鼻を掠め、黒装束が同時に踏み込む。切り下ろされた刀身を半身で躱し、掌で弾いた。両手を前に押し出し、勁を流す──虎撲。胴に沈み、身体が浮く。仰向けに倒れた田上を、見下ろした。


 咳き込み、胸を抑えた。殺気が膨れ上がり、口角を上げる。剥き出しの犬歯を唾液でぬめらす。握った軍刀を床に突き立て、立ち上がった。


 鉄柱が瞳を覗く。

「なるほどね。狂ってんな、田上十蔵。俺が仕留める訳にはいかんが......」


 手首が返され、きらめく。小柄が巨躯に迫っていた。顔を逸らし、掌で払う。笑みを讃えた貌が目の前に居た。刃が走る。戸山流──逆袈裟斬り。胸に切先が触れ、肩を抜ける。掌を黒装束に当てた。強く、押して──浸透勁。


 田上が吐血しながら後方に飛ぶ。肩と胸から流れる血を払って、鉄柱が胸に力を込めた。傷が、閉じる。


 白髪混じりの髪を揺らし、大きく息を吐き出す。手の甲で口を拭い、舌を出して舐め取った。

「強いな。馬鉄柱。しかし、儂の勝ちだ。標的は仕留めた」

 寝所の布団に穴が空いていた。郭が転がり落ちて、脇腹を抑えていた。鏢が刺さっている。


 鉄柱が駆け寄り、抱き抱えた。口から泡を吹き、痙攣している。郭の見開かれた目から一つ、零れた。


「その暗器使いの小僧、良い毒を使っとるな。そいつが居なければ、貴様に阻まれたかも知れぬ。だが、儂の勝ちだ」


 歯を食い縛り、唇が切れた。鉄柱の顔が紅潮する。郭を寝台に寝かせ、田上を見た。

「護衛は失敗だ。俺はお前を殺さねぇ。弟弟子がお前の相手だからな」

「ほう。凛が言ってた奴かな。お前を見た感じ、楽しめそうだ」


 咳き込み、胸を抑えて扉に向かう。

「馬鉄柱。お前は儂を殺さないんじゃ無い。殺せ無いのだ。このまま死合ったとしても。お前の弟弟子を殺した後、決着をつけようや」


 土気色の手が寝台の横に垂れ下がる。分厚い掌で包み、郭の胸上に置いた。

「楽しすぎて、俺の前に死んじまうだろうよ」


 剥き出しの犬歯を見せて、しゃがれた笑い声が響く。扉が閉じた。


 郭文徳の瞼を撫で、静かに立ち上がる。亡骸に頭を下げた。垂れ下がった弁髪が、頬を叩く。

 



三章「傷痕」


第十一話「胸の傷痕」


 畳んだ着流しを傍に置いて、寝床に座っていた。下着だけの姿。右脚を何度も揉み、左脚に触れる。ドアが開き、巨躯が部屋に入って来た。分厚い胸板に残る痕。


 肩まで続くその傷に、視線が向いた。煤けた黒シャツは赤く滲んでいる。

「切り傷か。浅く無さそうだな。大丈夫なのか?」

「おう。もう塞がってる。何でもねぇ。が......ちょいと疲れたな」

 鉄柱が大きく溜め息を吐いた。白蓮が着流しを手に取り、袖を通しながら己の傷跡を見る。

「この傷跡に似てるな。何をしていた?」


 床に座り込み、隆起した肩をすくめる。弁髪が、揺れた。

「護衛を頼まれたが失敗した。その時の傷だ」

「失敗......お前がそんな傷を負う相手だと?」

「ああ。田上十蔵だ」


 帯を締めていた手が止まる。白蓮に刻まれた傷跡が熱を帯びた。鉄柱を睨みつけて、詰め寄る。弁髪の男が視線を受け止めた。

「田上だと?お前、敗れたのか?」

「負けたと言えるな。依頼主が殺されちまったからな」


 握った拳を壁に叩きつけ、総髪が乱れた。深く息を吸い、吐き出す。

「お前も理由ができたのかもな。鉄柱。だが、もう少しで走圏が成る。お前が田上十蔵を殺す機会は、もう無いぞ」

「冷静じゃねぇか。それで良い。もしお前が殺されたら、俺の出番だ。......俺に回すんじゃねぇぞ」


 口元を緩めて、ドアに歩く。座り込む鉄柱の横を過ぎる時、分厚い肩に手を置いた。

「そこで寝とけよ。俺は修練の仕上げだ」


 階段を降りていく音を聞きながら、床に弁髪が触れる。瞼を閉じた。


 窓ガラスを越えた日差しが、顔を照らす。寝息が、いびきになっていた。


 

四章『孤狼と虎』


第一話「傷跡」




 



 



 

 


 



 












 

 



   

 


 







 


 

 


 


 


 


 




 









 













 



 




 








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