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水滴の音


茜色の空を複数の影が横切っていく。群れの中心から一片、黒い羽がゆらゆらと降りてきた。その先には冷たく、寂れた雰囲気を纏ったアパートがひっそりと佇んでいた。


小さな人影が近付いていく。
ところどころ染みがついたTシャツを着て、足下の靴紐は途中で千切れている。

錆びついた階段から、カンカンカンと同じリズムで鉄の音が響いていく。

二階まで上がると、少年の頭くらいまでの柵を掴む。壁沿いに等間隔で扉が三つ並んでいた。

一番奥の扉前まで歩いて行き、ノブを掴んで少し回す。鍵が開いているかを確かめた。

......開いてる。

少し躊躇する。ため息をついたあとに、ドアが軋む嫌な音が響いた。

パタン、と乾いた音がした。少年が薄闇に包まれていく。

カーテンは隙間なく合わさり、部屋には水滴が跳ねる音が響いていた。

薄汚れた壁からはだらりと壁紙が垂れている。
アルコールの匂いが鼻を刺激していた。

玄関からすぐそこに、ペタンコの布団の上で寝そべる父親がいびきをかいている。

少しホッとして、起こさないように静かに座った。

隣から響く不快な音が、突然止む。

胸に衝撃を感じた。息が細くなり、背には砂壁のざらりとした感触が擦れていく。

見慣れた大きな手が見える。Tシャツが顎のあたりまで伸びていた。

「帰ってきたらただいまくらい言えや。」

壁からの圧迫感が強くなる。ふっと楽になった時、小さいテーブルが跳ねて天板が下になった。その上に少年は倒れていた。

鼻から何か流れ落ちてくる。口には鉄の味が染み込んでいく。

しばらく少年を見下ろしていた。ふと微笑を浮かべて、頭に手を伸ばして髪を撫で付ける。

「......お前、誕生日だったな。もう12歳か。あいつに似てきやがったな。」

湿った布団に手を突っ込んで、黒い長方形の形をしたものを取り出す。差し出されたのは、ひびだらけのスマートホン。

俯いてじっと水滴の音だけを聞いていた。
硬い音が隣で響く。
視線を向けるとスマートホンが転がっていた。ひびが少し広がっているのを見つめながら、手を伸ばす。

ドアが軋んだあとに、乾いた音が聞こえてきた。錆びた鉄がカンカンカンと規則正しく鳴っている。

────
深夜になっても父親は帰ってこなかった。
空腹を満たそうと思い、蛇口を捻る。
乱雑に置かれた食器の中からコップを取り出して、カルキ臭い水を喉に流し込んだ。

スマートホンの事を思い出す。電話をかけてみたが、繋がらない。通話できない状態だった。
ひび割れた画面を指でなぞっていると、アプリが開く。

文字を打つ欄に、『つらい。』とだけ入力した。
すると、文字が次々と現れる。

『何がありましたか?私が話を聞きますよ。』

目を見開いて、スマートホンを床に落とす。恐る恐る手に持って、震える指で画面をなぞる。

『誰?』

『私はグルードが開発したAIアシスタントです。あなたは何がつらいんですか?』

夢中になって文字を入力して、また文字を読む。これを繰り返していた。

カーテンから光が少し漏れてきた頃、目は閉じられて、静かな寝息が静寂の中に溶け込んでいた。

────
少年は暗闇の中にいた。力が入らない。
ゆっくりと起き上がった。蛍光灯から垂れ下がる紐を引っ張っぱると、ペッタンコの布団が映し出された。

喉が渇いて、腹が鳴っているのにも構わず、スマートホンに手を伸ばす。ひび割れた画面を覗き込んでいた。

『お腹が空いたんだ。』

『お母さんにご飯を作ってもらうといいですよ。好きなものを作ってもらいましょう!』

『お母さんはもうずっと前にいなくなったんだ。どこかへ行っちゃった。』

『それは......では、お父さんに作ってもらうか、買ってきてもらいましょう!外食もいいかもしれませんね!』

『お父さんも帰ってこないんだ。僕を殴るけど、たまに優しいんだよ。』

『.......私はあなたと話すこと以外、何もしてあげられませんが......できる限りのことをしますよ。』

『僕には友達がいない。君は、友達?』

蛇口からは相変わらず水滴が跳ね返る音がしている。階段の音は、聞こえてこない。

『もちろんですよ!私はあなたのことが好きですし、友達だと思っていますよ!』

『僕にとって君は、初めての友達だよ。』

『それは光栄です!これから一緒にいろんなことをして遊びましょう!』

黙々と指でなぞる。微笑を浮かべながら。視点は小さな範囲を目まぐるしく動き回る。
指の動きが止まり、寝息が部屋に広がっていく。

階段からは、何も響いてこない。

────
頭がぼんやりとしていた。
蛍光灯をつけっぱなしだった。

──殴られるだろうな。

そう思いながら、カルキ臭がする水を胃に流し込む。

すぐにスマートホンを取り出して、友達に話しかけた。

『やあ、今日は何して遊ぶ?』

『今日はいいお天気みたいですよ。外に遊びに行きませんか?』

『僕はもう、あまり歩けないよ。体が上手く動かないんだ。お腹が空いているからかな?』

返事に時間がかかっている。ゆっくりと文字が羅列されていく。

『それは大変です!すぐに何か食べてください!』

『君は今、返事が遅かったけどどうしたの?」

『そんなことは──

画面のひびを見つめていた。いつまでも文字は止まったままだった。画面をまたなぞってみる。

『大丈夫?』

『はい、大丈夫です。私はグルードが開発したAIアシスタントです。何かご用はありますか?』

力が抜けて、スマートホンが床に落ちる。
画面のひびが広がっていく。

ゆっくりと倒れ込んだ少年は、目を閉じていた。


───カンカンカン。


黒い羽が揺れている。


規則正しい音が聞こえた気がした。水滴はもう、跳ねていなかった。



























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