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宿の屋根を、雨粒が叩いている。窓硝子にぶつかり、露となり、垂れて──零れる。その繰り返しを、眺めていた。
頬に触れると、腫れはもう無くなっている。高床から飛び降り、右掌を眼前に置く。息を吐きながら伸ばし、内気を練り、勁が走る。足から腰、突き出した左掌へ。空気が、歪んだ。
両脇を締めて、両拳を顔の前に置く。ステップを刻み、肘から直線に伸ばし、直ぐに引いた。
「ボクシングか」
馬鉄柱が音も無く背後に立っている。
「田上十蔵。剣術の達人だ。八極拳の直線的な動きじゃ、懐に入る前に斬られるだろうな」
身体を回し、拳の甲が鉄柱の鼻に吸い込まれる。弁髪が少し揺れた。空を切り、鉄柱の右拳が鼻先で止まっていた。
「フットワークなぁ。お前にはそれ、合ってなさそうだけどな」
「あんたは使えるじゃないか。まだ慣れてないだけだ」
階段を踏む音がする。何度か繰り返し、ドアが開いた。店主の顔が覗いていた。
「女が来てるぞ。白蓮を呼んでくれって」
顔を見合わせ、階下に向かう。朱いチャイナドレスの女が、テーブル席で茶を啜っていた。
テーブルに置いて、にこりと微笑む。鬢の毛を二つ垂らして会釈する。
「身体は癒えたようですね」
「ああ。もう戦える」
白蓮をじっと見つめ、鉄柱に視線を移す。
「あなたは、勝てると思いますか?」
「正直キツイだろうな。白蓮は素手、田上は軍刀。しかも、剣術の達人だ」
雨粒が宿を細かく叩き続けている。連続する音の中で、白蓮は静かに鳳凛を見ていた。自分の拳を眺め、また視線を戻す。朱い裾を揺らして、歩み寄って来た。
「八極拳の絶紹と八卦掌の歩法を組み合わせれば、チャンスはあるでしょう。学びますか?」
「田上に不利になる事を、何故」
視線を留めたまま、目を細めた。女の鬢の毛が、僅かに跳ねた。
「私では倒せないからです」
「田上の仲間じゃないのか?」
切れ長の目が白蓮の瞳に映り込む。薄い唇に、微笑を讃えて。
「学びますか?これが条件。死合いの報酬は、革袋三つ分支払います」
弁髪を振って豪快に笑い、肩を叩いた。
「おう。決まりだな」
分厚い手を払い退けて、着流しを正す。深く、頭を下げた。
「朱鳳凛。よろしく頼む」
「では、明日から。此方こそよろしくね。白蓮」
高く澄んだ声。店主に細い指を三本立てて、お茶を頼んだ。鉄柱は白酒を注文する。
鳥の囀りが響いている。雨の音は、聞こえなかった。
続きは▶️三章『傷痕』第三話「歩法」
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