作品アーカイブ (目次)
草を噛んでいた雌鹿が、散らばった雪に視線を移す。耳を少し動かしたあと、咀嚼する。
風を切り裂く音が聞こえた。
短い鳴き声が響く。鹿の口から漏れたものだった。飛び散った鮮血が雪を溶かす。頭を矢が貫き、ゆっくりと倒れ込む。
木影から男が顔を覗かせる。吐く息が白く広がっていた。手に持った弓を背中に背負い、地面を踏みしめながら近づいていく。草が潰されて、その音が鈍く広がった。
長い草が揺れている。隙間から、子鹿が姿を現していた。片膝を立てて、気配を殺した。子鹿が死体に駆け寄っていく。鼻を動かしながら、母鹿の顔を舐めている。
弓から指を離して、ゆっくりと立ち上がった。
子鹿の顔が男に向く。視線が交差した。じっと見つめている。
「一匹じゃ、生きれないよな......」
腕を伸ばして頭に触れる。子鹿が頷くように下を向いた。撫でながら歩きだすと、子鹿も歩きだした。
異なる足跡が、雪の上に並んでいた。
────
蝉の鳴き声が、重なり合って反響する。木の下には丸い穴がいくつも空いていた。紺碧に彩られた空には、白い雲がいくつも浮かんでいた。
強烈な陽光が降り注いで、男の肌を焼いている。額から滑り落ちる汗が、顎先に溜まって落ちていく。背負った弓に指を這わせ、腰の矢筒に触れてから歩き出した。
鹿が草を噛んでいた。草を踏む音に気づいて、首を持ち上げる。男と視線を交えたあと、頭を地面に向かわせる。草を噛んで、咀嚼を繰り返すたびに袋角が揺れていた。
木に背を預けて眺めている。口元に微笑を浮かべていた。座り込んで、足を組んだ。風に煽られて枝がしなる。葉がざわめいて、草が揺れた。
空気を切り裂く、音。
鹿の頭から鮮血が飛び散って、ゆっくりと倒れていく。男の瞳には、袋角が映っていた。じっと見つめていた。汗ばんだ手が震えて、口の中が乾いていく。足を解いて立ち上がった。
草の隙間から少年の姿が見えた。矢筒を背負って、左手には弓を握っている。少年は鹿から視線を外して、男を一瞥した。
「これは俺の肉だ」
ナイフを取り出して、肉を切り分け始めた。
周囲の草が真紅に濡れていく。
「......そいつは、俺の家族だったんだ」
男の弓を見つめながら、ナイフを止める。その手は赤く染まっていた。
「その弓はなんだ?あんたも狩人だろ」
「そいつの親を殺したのは、俺だ。......お前は、子供なのに。......親はどこにいる?」
少年は血に濡れた手を腰に当てた。
空に浮かぶ雲を眺めている。
「......俺だけだ」
男の目を見て、微笑んだ。男は鹿に向かって歩いて行く。ポケットからナイフを取り出して、肉を切り取る。温かい液体が、手を包み込む。鹿の頭から丁寧に矢を抜いた。
「お前の肉だろ?......手伝ってやるよ」
「......あんたにも分けてやるよ」
微笑を浮かべてゆっくりと腕を伸ばした。少年の胸に当てる。握られた手には、矢があった。
「これは、お前の矢だ」
少年は受け取った矢を、厳かに納めた。
────
肉の焼ける匂いが煙と一緒に漂っていた。枝を回転させて満遍なく焼いていく。肉汁が滴って火に注がれる。パチパチと心地良い音が響く中で、少年が皿を用意していた。テーブルに並べられた皿には、肉が盛りつけられていた。
向かいに座った少年に短く告げる。
「───祈れ」
男が瞼を閉じて、両手を合わせる。少年もそれに続いた。
目を開けて、両手を離す。
「お前は、家族だ」
皿に盛り付けられた肉を見つめて、呟いた。
「......俺も、一人じゃ寂しいしな」
少年は頷いて、肉を頬張った。咀嚼して、飲み込んでいく。腹の中いっぱいに肉が行き渡った。水を飲んでから、少年が告げた。
「俺もだよ」
笑顔が炎に照らされていた。
男は赤く染まった頬をすぼめて、白い息を吐き出した。酒を喉に流し込む。
焚き火の音が静寂に広がっていく。その煙は、煙突を伝って瞬く星へと昇っていった。
────命が、染み込んでいく。氷と炎のように。
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